自分語り日記

自分語りしたっていいじゃない、何と思われてもいいじゃない

8/18(木)記事ログ

終身雇用

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奥田氏は終身雇用とか、一つの場所にずっと居続けることに拘りがないみたい。自分も似たような考えで、特に一つの組織に居続ける必要性を感じていないし、社会的地位みたいなものに拘りがない。

その時々の追いかけたい目標を追いかければいいと思うし、何かしら言い訳をつけて(例えば家庭とか。それなら理解のあるパートナーを見つけ、かつ移動した先で死に物狂いで頑張って責任取ればいいだけの話)足踏みするのは人生後悔すると思う。

「我が生涯悔いなし...!!」みたいなジジイになって死にたいものだ。

 

自分みたいな終身雇用が当たり前でない文化に触れたわけでもない純ジャパが、何故こういう考えするようになったのかなって考えると、親が引越しを機に脱サラした経験があるのかなとふと考えた。

かくいう私もいわゆる大企業に入る人間だが、まずは目の前の仕事に必死に食らいついていきながら、社会を見てこようと思っている。

現段階では、その中で基本動作を習得し、どう行動したら何がどう動くのか、みたいな力学みたいなものを、規模の大きな仕事の中で見ることが非常に楽しみである。

 

2:8の法則

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「このニッチ市場を攻めたい」と提案できるのは仕事人として本当に格好いいと思う。(文中では会社の要請とあったので、現実は難しいのだろう。)

さて狩野さんの2つの信条として、「忙しい自分を出さない」と「他者を尊重し続けること」というものがあった。

前者は2つの意味で大事で、一つは文中にあるように周囲とのつながりを維持すること、もう一つは実際暇になるくらいの仕事のやり方が望ましいということだ。

 

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である

なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である

 

 この元マイクロソフトプログラマーの中島氏は、大小様々な納期に一度も遅れたことがないことが周囲から信頼を得た大きな要因だと語る。

「2:8の法則」と中島氏は呼んでいて、これは「ある仕事を任された時に、納期までの2割の時間で8割仕事を終わらせる」という仕事のルールだ。よってその2割の時間は相当に仕事に集中する(本人曰く界王拳3べえだっ!!!!!級のテンションらしい)。

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逆に2割の時間で8割終わらせることが出来なければその段階で「あ、これやばいやつだ」と上司に相談するのだが、その段階ではまだ2割しか時間が経っていないので大怪我はしない、という魂胆である。

 

当然早めに仕事を終わらせることによって暇にはならないだろうが、間違いなく締め切りに追われないという意味で心の余裕を持つことができる。これは考え方によっては暇ということができるのではないだろうか。

忙しそうにしないということは、こんなメリットもあるのではないだろうか。

 

 

具体的に考える

今朝のニュース

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まずはこちらの記事を読んでみてほしい。

 

人の言葉を理解し、自分の力とすることは本当に難しい。

上の記事を読んで考える言葉の中に、「出る杭は打たれる」という言葉があるだろう。

 

どのような思考経路をたどった時、本当に「出る杭は打たれる」という言葉を自分にとって有用な形で消化できるのであろうか。そのゴールはどのように設定できるのであろうか。

 

「日本は出る杭を打つ文化だ、よくない」と考えても何の役にも立たないことは明白だ。具体的にどのような状況で発生するのか、その状況に自分はどのように関係することになるのか、可能性を具体的にイメージしていかなければならない。

日本特有のものでよくない、とレッテル貼りして終わるわけにはいかない。

 

文中で注目したのは、幼い頃の伊藤選手が練習場で他の子や風習と違う形で練習をしていた際、コーチが「最初は注意しようと思った」という部分である。

恐らくこのコーチは自然と「注意した方が良いのでは」と考えたであろうし、そこに伊藤選手の足を引っ張ろうという意図は当然なかったはずだ。

出る杭を打つというと、自利のため意図的に他人の足を引っ張るというネガティブなイメージを持つが、このように無意識的に人の可能性を狭めている場合があるということを学ぶ。

そして更に思考を進めて、自分も無意識的にそのような思考をしている、もしくはする可能性があるのではないかと、特定の場面を具体的にイメージする必要がある。

 

この無意識こそが社会の「風潮」と呼ばれるものであり、自分が無意識にどのような行動を取っているのか、意識しなければならないのである。

無意識を意識するために、自分の頭の中で考えることは当然ナンセンスである。それは無意識なのだから。

 

だから人と話すとき、情報に触れるとき、そこから問題点を抽出し具体的に考えなければならないというのは自分の無意識に気付くというメリットがあるからなのである。

 

いわゆる「共感」というものに近いのかもしれない。

具体的に考え、情報を自分のものとすることは、普段のコミュニケーションで人と円滑に意思疎通をする上でのトレーニングになるというメリットもある。

 

 

書く

9月から約半年インドに行くことになった(した)

 

海外行きを考えることを含め、就職活動を中心に自分について考える時間がかなり増えた。そのヒントを得ようと、就職活動が終わってから今までの間、バイトの合間を縫ってかなり本やネットでのエッセイを読む機会を増やしたが、それだけでは人の話を聞いてフンフンと言っているのと同じで、頭に残っていることもあれば残っていないものもある。

 

消えるべくして忘却の彼方へ旅立つ程度の内容ならいいのだが、いかんせんおつむに限界があるので、残しておきたいものが頭から消えていくのは非常に困る。

自分が実際に経験して、失敗して人に怒られたり、成功して感動したりした経験は自分の感覚として「身体」に刻まれているので忘れようがないのだが、読み物ではどうしても自分の血肉とすることは難しい。

 

こういった実体験の重要性は意識しつつも、やはり読みたいものは読みたいし、どうせ読むならいい時間にしたい。

過ごした時間はなんだったのかと虚無感に襲われると同時に実利もないというネガティブのダブルパンチを回避する方法として、「書く」という方法を試したところ様々な意味で有益だったので、「自分語り」という誹りを甘んじて受け入れつつ、思うままに書いていくことにした。

 

 

「考えたことを書き残す」

人が何かを続けるには相応のモチベーションが必要だ。

何かを人に見える形で書き残すことは、(少なくとも私は)非常に快感である。

 

私のモチベーションの中には、「承認欲求」という日本社会で忌み嫌われる要素が含まれていることを認めなければならない。いや、実際にそういう人を見ても「ふーん」という感想しか持たないので、日本社会のせいにするのは良くない。

本当は「他人を気にする」という、いかにも自分だけに向けられた意識のベクトルから離れられるかどうかが個人の幸せを相当に左右していて、あくまでも個人の問題だ。

「他人を気にしないほうが幸せ」という当たり前の事実に気づいたのは大学1年の時だが、それを遅ればせながら今回具体的な行動で実践している。

 

もちろんポジティブな面では他人を気にしていい。

自分の夢を大きく育てていくのなら、それは必然的に多くの人を幸せにする夢になるはずだ、というのは「夢をかなえるゾウ」のガネーシャの教えである。

人が何を欲しているか、如何に人を驚き喜ばせることが出来るか、については常に考えていたい。

 

「他人がやっているから」「誰かに気に入られたいから」という要素が行動の動機になっていると感じたら、当然生きていく中でそのような行動をとらざるを得ない場面は出てくるかもしれないが、常に正直な自分の気持ちには向き合っていたいものだ。

 

だから私は書こうと思う。

他人の役に立たない駄文を撒き散らしながら、書いて、自分の欲求を満たしつつ、ちょっぴり自分の役に立てばいい、そしてちょっとでも肯定的にこの文を捉えてくれる人が現れればいい。そんなわがままな場にしたい。