自分語り日記

自分語りしたっていいじゃない、何と思われてもいいじゃない

書く

9月から約半年インドに行くことになった(した)

 

海外行きを考えることを含め、就職活動を中心に自分について考える時間がかなり増えた。そのヒントを得ようと、就職活動が終わってから今までの間、バイトの合間を縫ってかなり本やネットでのエッセイを読む機会を増やしたが、それだけでは人の話を聞いてフンフンと言っているのと同じで、頭に残っていることもあれば残っていないものもある。

 

消えるべくして忘却の彼方へ旅立つ程度の内容ならいいのだが、いかんせんおつむに限界があるので、残しておきたいものが頭から消えていくのは非常に困る。

自分が実際に経験して、失敗して人に怒られたり、成功して感動したりした経験は自分の感覚として「身体」に刻まれているので忘れようがないのだが、読み物ではどうしても自分の血肉とすることは難しい。

 

こういった実体験の重要性は意識しつつも、やはり読みたいものは読みたいし、どうせ読むならいい時間にしたい。

過ごした時間はなんだったのかと虚無感に襲われると同時に実利もないというネガティブのダブルパンチを回避する方法として、「書く」という方法を試したところ様々な意味で有益だったので、「自分語り」という誹りを甘んじて受け入れつつ、思うままに書いていくことにした。

 

 

「考えたことを書き残す」

人が何かを続けるには相応のモチベーションが必要だ。

何かを人に見える形で書き残すことは、(少なくとも私は)非常に快感である。

 

私のモチベーションの中には、「承認欲求」という日本社会で忌み嫌われる要素が含まれていることを認めなければならない。いや、実際にそういう人を見ても「ふーん」という感想しか持たないので、日本社会のせいにするのは良くない。

本当は「他人を気にする」という、いかにも自分だけに向けられた意識のベクトルから離れられるかどうかが個人の幸せを相当に左右していて、あくまでも個人の問題だ。

「他人を気にしないほうが幸せ」という当たり前の事実に気づいたのは大学1年の時だが、それを遅ればせながら今回具体的な行動で実践している。

 

もちろんポジティブな面では他人を気にしていい。

自分の夢を大きく育てていくのなら、それは必然的に多くの人を幸せにする夢になるはずだ、というのは「夢をかなえるゾウ」のガネーシャの教えである。

人が何を欲しているか、如何に人を驚き喜ばせることが出来るか、については常に考えていたい。

 

「他人がやっているから」「誰かに気に入られたいから」という要素が行動の動機になっていると感じたら、当然生きていく中でそのような行動をとらざるを得ない場面は出てくるかもしれないが、常に正直な自分の気持ちには向き合っていたいものだ。

 

だから私は書こうと思う。

他人の役に立たない駄文を撒き散らしながら、書いて、自分の欲求を満たしつつ、ちょっぴり自分の役に立てばいい、そしてちょっとでも肯定的にこの文を捉えてくれる人が現れればいい。そんなわがままな場にしたい。